ブログもそうですし本もそうですし会話も全て「言葉」から成り立っています。
その言葉は「概念」から成り立っています。
「私」という言葉と概念ですね。
私たちは言葉で教育を受け、人として社会で生きていいけるように成長してきます。
パパ、ママという発声をお父さん、お母さんという概念に当てはめて意思疎通を取れるように成長して行きます。
成長とは言葉を概念と結びつけて共通の概念を持った社会を渡って行くための条件のようなものです。
しかし、この概念は生物の共通化といえばそうでもないです。
あくまで人間の概念です。
この概念は幸福と、不幸を作りました。
領土を作って国を作りました。
元々の地球そのものにはないものです。
人工的な産物も全て概念が作ったものです。
社会というものもありませんし、環境なんていう概念もありません。
私たちは現存する産物、事象を概念で捉えますがそれは人間の作った視点であって必ずしも事実ではありません。
例えば、「人間万事塞翁が馬」が示しているように、物事にいい悪いはありません。
浄土真宗では「絶対他力」に行き着きます。
我々の頭が作り出した概念なんでいうものは所詮概念であって、色眼鏡であって作られたものです。
誰々は素晴らしい人だというのも素晴らしいという価値観の元に成り立ちます。
価値観のないところに良い悪いがないように、地球というそのものに価値観はありません。
もっというと生まれてきた価値は特にありません。
雑草に、虫に、雲に、石に価値をおくのは人の概念です。
概念がなければ価値という概念すらありません。
私たちが苦しんだり、悩んだり、落ち込んだりすることの根元には価値観を持つ概念が存在します。
でもそれが作られているという事実を知ったたら、それに振り回される必要はありません。
でもこの真実には危険性もあります。
つまり、道徳や倫理すらなくなるので、浄土真宗が危険だとされたように、事実は価値観によって自由に解釈できるようになってしまいます。
つまり聖戦があり得るようになってしまうのです。
価値の自由度は危険性を伴いますが、事実であることは確かです。
だから様々な信仰が生まれ、国が生まれ、差別が生まれています。
概念によって勝手に作られているから、相入れない価値が生まれるのです。
この事実を超えて、概念を捨てそのままを見つめるのがヨガであり哲学なんだろうと思います。
それぞれ最終的には言葉を越えなければ意味がありません。
言葉という概念を。隠喩を超えなければ真理には行き着かないのだと思います。
このことに気づいてから、だいぶ楽になったと同時に、危険性についても強烈に感じています。
この諸刃の剣の真実をどう人生に生かして行くかが今の課題です。
一歩間違えると世捨て人的な感覚になってしまいます。
または腑抜け、抜け殻に。
何事も程度が難しい、バランスが難しいですが、特にこの世界観については難しいですね。
いつかスッキリした答えが出るように、まだまだ試行錯誤を楽しみます。
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